昭和46年5月9日 朝の御理解
御理解 第99節
「無学で人が助けられぬと云う事はない。学問はあっても真がなければ人は助からぬ。学者が身を食うと云う事がある。学問があっても難儀をしている者がある。此方は無学でも皆おかげを受けておる。」
此方は無学でも皆おかげを受けておると。此方というのは教祖金光大神のことであります。教祖金光大神は御自分でも仰ゃっとられます様に、無学の百姓とこう言う。自分は学問はないけれども皆人が助かっておると。無学でも人が助かっておる。だから、学問があっても真があれば人は助かるとこう言われる。人が助かると云う事は、勿論自分自身が助かると云う事であります。此方金光大神は、いわゆる御自身が助かっておられた、御自身が助かって居られたから人げ助かったのである。
此方金光大神という方は、だから、どう云う様なおかげを受けられて、どのような助かり方をし、または助け方をなさったかと言うと。御理解九十六節の、いや御理解九十四節の最後のところに、「信心の篤いのが真の信者じゃ」と仰せられとる。信心の篤いのが真の信者じゃと。手篤いいわゆる信心をする氏子が真の信者という。だから、教祖の神様はいわゆる手篤い信心をなさった。言わば実意丁寧の限りを尽くされた信心であった。是で良いと云う様な其の事はない、実に手篤い信心をなさった。
例えばそういうそんな片鱗を見ることが出来るのは、まだ教祖様がお百姓をなさって居られる時に、村内の方達と皆一緒に、お四国詣りをなさっておられる。お四国詣りを。随分やはり難所が有りましてね、もう其処までも足を伸ばして参ることは時間も掛かるし、大変お参りしにくい所なんだから。だから、何処其処の谷にお祭りしてある何々様と、こちらの方から皆拝んで通られるのですけれども、教祖様はやはりお参りしにくい、行きにくい所にも足を運んで一々拝んで廻っておられる。
と云う様にてあついいわゆる心掛けを持っておられたと云う事。いわゆる実意丁寧な心掛けを持って居られた。そういう信心をすることによって、真の信心、または真の信心がお解かりになられる訳でありますが。だから、此処で学問があっても難儀していると云う事は、学問があるから難儀をしていると云う事ではない。学問はあっても難儀をしておる。だから、学問があってもやはり真があれば、自身も助かることが出来、または人も助かることが出来る。
だから此処では無学で、教祖の場合は無学であったと云う事。自分で仰っておられるけれども。是はどんなに学者であっても真があれば、言わば手篤い信心をさして頂けば、おかげが頂けれると云う事になりますね。此方は無学でも皆おかげを受けておる。其処でまあ結論を先に申しますと、教祖様が御自身実意丁寧神信心をなさり言わば行き届いた信心をなさり手篤い信心をなさられる間に、どう云う事になられたかと言うとね。
様々な問題様々な難儀をやはり人間教祖もやはり持っておられたのですけれども、手篤い信心をなさって行かれる内にね、段々めぐりが無くなって行った。巡りのかげが薄くなって行った。そして巡りが無くなって行った。此方は無学でも皆おかげを受けておる。此方金光大神は、実意丁寧、いわゆる手篤い行き届いた信心をなさってる内に、段々御自身のめぐりが無くなって行った。
巡りが無くなって行ったということは、御自身が助かっておいでられた。これは心の状態だけではない。形の上にも、全ての点に於いて助かっておいでられた。ですから、此処に思うのはね、私共が日々此処で信心の稽古をさせて頂いておりますが、ただ一生懸命に拝んでおります、お参りをしておりますというだけでは、手篤い信心と云う事にはならない。手篤い信心というのは、巡りのお取り払いが頂ける。
めぐりの影が消えて行く程しの、信心をさして頂くと云う事が、手篤い信心と云う事になる。今日は其処ん所を一つ、私も今日初めて其処ん所を始めて頂いておる訳です。あ、実意丁寧だ。一生懸命信心なさると云う事は、ただ丁寧に拝むとか、毎日毎日お参りをするとか、修行をするとかと云う事では無くてですね、そういう成る程日々の信心修行の中から、巡りのお取り払いが頂けて行く様な信心。
そういう信心を手篤い信心と言うのである。だから真の信者にお取り立て頂くことも出来、真の道に出ることも出来、真の信心をさして頂くことも出来るわけです。めぐりのお取り払いを頂いて行く程しの、めぐりの影が段々進んで行く程しの、いや無くなって行く程しの信心を、手篤い信心と言うのである。此方金光大神は其の様な信心をなさった。私共はそういう信心をさして貰わにゃならん。
ですから信心を手篤くさせて頂いておる、熱心にさして頂いておるという間にです、巡りのお取り払いを頂くチャンスが次々と有る訳である。「やれ痛や今みかげをという心になれよ」と仰るそれは痛い事、様々の難儀を感ずる事でありましょう。心に大きな打撃を被る事も御座いましょう。形の上でそう云う事もありましょう。ですからそれは苦しい事であり、悲しい事であり、または痛い事でもありましょう。
けれどもその事をです御神意として頂いて、神様のご都合として頂く。「やれ痛や、今みかげを」と、今こそみかげを頂いとる時であり、今こそめぐりを取り払って頂いている時であり、そしてお取り払い下さる神様に対して、御礼申し上げれる信心。そういう姿勢を以て、信心が進められて行く。そういう言わば信心をさして頂くことがです、手篤い信心と云う事になるのです。「信心の篤いのが真の信者じゃ」と。
信心が手篤いというのは、これ程信心するのに、こげん一生懸命参りよるのに、こげん一生懸命拝みよるとに、どうしてこげな事が起こって来るじゃろうかと、云う様な事では、もう手篤い信心とはならない。「この方は無学でも人が助かっておる」とおっしゃる。無学でも、どうして人が助かったかというと、教祖御自身が、いわゆるめぐりのお取り払いを受けられる。
様々な難儀にあった場合、例えば、お子さまが亡くなられる、と言った様な人生の中でも、そういう悲しいことに、出会われてもです、私の信心の不行き届きとして、お詫びをなさる。ひたすら神様へそのことを以て、近づいておられる。だからお子が亡くなられたことは、悲しいことであるけれども、お子様が亡くなられるという、大変な悲しい悲しいことが、それだけのめぐりの、お取り払いを受けられての、信心の進め方でおありになったと云う事がわかる。
そういう信心を此処では今日は手篤い信心だと。学んでいます手篤い信心「信心の手篤いのが真の信者じゃ」と。いよいよ真の信者、真の人間、真の人だとして、天地の親神様がそれこそ心を躍らせ、目を輝かして、教祖様の御在り方というものを、見守られておられた事であろうと思う。 其の様な生き方がです、巡りの影は愈々なくなって行き、薄うなって行きね、どの様な場合であっても、所謂安心と喜びとが、心の中におありになったであろうという信心生活を見にお付けになられ。
其処から此方のような無学な者の所でも人が助かると、云う事になられた訳であります。今日は皆さんに手篤い信心をして頂かねばならん。手篤い信心とは只今申し上ますように、どのような場合であっても、苦しいことであっても、痛いことであっても、「やれ痛や今みかげを」それをみかげとして頂ける信心。これは私が昨日からしきりに思うた信心ですけれども、皆さんの信心が段々わかって来て、どんな場合でも「神様の御都合ですなあ」と言えれる信心、又は信者。
どげな御都合ですか、と尋ねんで済む信者ね。まあ、その「どげな御都合ですか」と言うことに対して、なら簡単に答えますなら、神様が愈々おかげを下さろうとする御都合以外にはないと云う事。「泥棒に会いました」「火事に遭いました」と言うてお届けに見えた時です、神様の御都合ですなあと。私はそれを本当に言うても皆さんが本当に神様の御都合に違いありませんと頂けれる、皆さんが信者にお育て頂かれると云う事をね、もういよいよ願わなければならんなと。昨日その様な事をしきりに感じた。
それがです、そう感じられる信心を、今日、手篤い信心と言っているのです。「広大なおかげを頂きました」と。「家が火事に合いましたから全て灰になりました。けれどもおかげで信心は焼けませんでした」と。そういう信心なのです。そういう信心を手篤い信心と。一生懸命参りよるけん、一生懸命修行しるけんというのが手篤い信心じゃない。そういう信者が真の信者じゃと仰るから、そういう信者が真の信者である。
ですからもう完璧にです、その難儀の度が大きければ大きい程、それだけ巡りのお取り払いは頂いて行きよる。愈々影が薄くなって来て、いわゆるその影が宿さないまでにおかげを頂いて来た。言うならば、それこそ、晴れたお月様を見よる様な物じゃないでしょうか。雲一点かからない、いわゆる満月のお月様を拝む様な物じゃないでしょうか、自分の心の中に。成程「やれ痛や今みかげを」なので有ります。
「此方は無学でも」と仰る。此の方金光大神はです、そういうまあ完璧に巡りのお取り払いをお受けになられて、からこそ初めて天地の親神様の御信任がいよいよ篤うなり、神も助かり、人も助かり、氏子も助かって行く道の顕現にはなったのであります。そういう例えば信心状態というものを頂かせて頂くために、いよいよ大腹、太っ腹とも申しますかね、腹が大きいと。そして尚且つ細心細い心大きな腹の信心。
先日東京の大阪のいずお教会の出社で、あちらのまあ二番目の息子さんが東京に布教に出て居られます、そして又年四回位のなんか出しなさる小さい小雑誌が有ります、其の中にこういう様な事がその中に書いてあった「望遠鏡を持つロマンチストであると同時に、顕微鏡を持つリアリストでなければならぬ」と云う事が書いておられます。望遠鏡を持つロマンチストであると同時に、顕微鏡を持つリアリストでなければならない。
自分にはえらい寛大だけれども、人は許せないという人がありますね。自分のことは棚に上げて人の足元だけ分かる人があります。これは人を顕微鏡で見ている様な物であります。そして自分を望遠鏡で見ている 人を見るのは所謂望遠鏡で見て、自分自身を顕微鏡で見る生き方なんです。今日私が申します、どういう風に進めたら良いかというと、例えばなら一つの人間関係の場合でも、そういう生き方。
人には寛大、自分には厳しく、一つの難儀に直面致しましてもね、あれがああしたから私がこういう目に合ったというのではない。人のせいじゃない。それを自分自身に、心に顕微鏡を当てて見るとそれがはっきりわかって来る。人じゃない、自分自身。昨夜は久留米の佐田さんの所の宅祭に併せて、久留米支部のお祭を奉仕させて頂きました。もう本当に有難い、ああいうお祭りが出来るようになったら素晴らしい事だと思いますね。自分がいっちょんしてござらん。
勿論自分が一生懸命精進し努力して、昨日のお祭を仕えるためにはもう一ヶ月も前から、もうそれこそ人間の心の使われるだけの心を使わせて頂いて。まあおかげを頂いてまあその間様々な修行もあった。けれどもその修行が全部御大祭を有難く奉仕さして頂くための修行であった。ですから例えて言うとお供え物一つでもです準備の万端の上に於いてです、成程神様が働いておって下さるんだなあ、神様が集めて下さるんだなあと思わねばおられん程しのおかげの中にあのお祭りが仕えられたと云う事です。
私は昨日其の事を頂いてからもう本当に素晴らしいことだなあ、こう言う事だな、信心が育って行くことはと思うた。私が一生懸命真心をこめて仕えたお祭というのではなくて、そこに実が見えている。御供え物一つの上にでも、万事万端の上に、ああこうなさして頂く上にです、神様のおかげの中に、神様のお働きの中にこれが出来ておるのだなあという実感。だからこの御祭も。
佐田さん達一家が一生懸命になられたことは事実だけれども、一生懸命になられただけ、神様も一生懸命になっておられる印がね、印がそこ見えておるお祭りであったと云う事である。ですからもう神と人とが一体となって、あのお祭りが奉仕された。鐘が鳴るのか撞木が鳴るか、鐘と撞木の間が鳴るというお祭であった。神様だけでは出来ん。人間だけでは出来ん。その真と真の出会いがです、昨日のお祭りの形になって表れた。
まあちょっとこんなお祭りは先ず無いでしょうね。それが完璧と云う訳ではないですよ、まだまだ。けれどもそういう信心の状態と言う物はもう絶対、今日私が申しま、いわゆる手篤い信心からしか生まれて来ません。なら手篤い信心とはどう云う事かと申しますと、たとえ困ったことがあっても、それは巡りのお取払いとして頂くような信心なんです。皆さんご承知の通りですね、一家を挙げてのあのような信心です。
どういう難儀な問題があってもです、それを元気にそれを合掌して受けて行くという姿勢。手篤い信心とはそういう信心だと今日は聞いて頂いている訳です。そういう例えばおかげを頂くためには、只今私が申します様にね、望遠鏡を持ったロマンチストであらねばならんと同じに、顕微鏡を持ったリアリストでなけなければならないと云う事です。実に楽しい。難儀なことでも、もう佐田さんの奥さんが、丁度この四五日お届けをされる内容の中にです、大変困った問題があった。
難儀な問題があった、けれどもそれをもう心の底から「嬉しゅうして、嬉しゅうして」と言っておられます。それは例えば、望遠鏡を持って見るからなんですよ。正にロマンチストなんです。難儀なことはですね、「もう嬉しゅうて嬉しゅうて」と何時も来よんなさるですよ。そしてそれだけではない、自分自身には厳しく、例えば顕微鏡を持って見るような生き方、いわゆるリアリストでもあると云う事なんです。
段々腹が大きゅうなって行き、同時に細心になって行けれるわけですね。私共がおかげというおかげはね、そういう「どうぞお願いしますお願いします」と言うて現れて来るおかげは、もう神様が下さるおかげなんだ。いわば成程そういうおかげも頂かなければなりませんけど。昨日佐田さん所の例を取りますとです、神様の働きもさることながらです氏子の働きも、真と真が出合うその中から生まれておる所のおかげ。
だから神も喜び氏子も喜びというおかげになって来た。今日は「信心の篤いのが真の信者じゃ」と教えられる。その信心が篤いと云う事を、ただ今申しました、人のことを顕微鏡で見るのじゃなくて、これは問題でも良いですよ。例えば難儀な問題でも、それを例えば本当におかげで頂くと云う事こそです、神様の深い思し召しのあってのことであろうと。遠い所である神様の思いと言う者を、思んばからして頂く時にです、有難いなあと云う事になるのですよね。
その難儀な問題でありましても神様の御都合だとして頂くことは、望遠鏡で眺めているようなもの。遠いところに、私共は分からんものですから、神様の御計画というか神様の心というのは深くて広い。人間凡夫には相分かりませんけれども、これは神様がよりおかげを下さろうとする働き以外にないと頂く心なんです。そういう信心をです、いわば手篤い信心と。と同時にです、其処に難儀を感ずる、痛い痒いを感ずる時です。
私自身の心の中に顕微鏡を当てて見る様な思いを致しますと、あるわあるわね難儀をせなければならん元が、うじょうじょしとる。其処に初めて改まると云う事になって来る。そういう生き方なんです。そういう生き方を今日は私は手篤い信心。そういう頂き方をです、いわゆる「やれ痛や、今みかげを」という頂き方こそが巡りのお取り払いを頂いて行くと云う事なんです。
その巡りが晴れて行く。自分の心に曇り一点ない程しの明るさと言う者のが、巡りのお取り払いと同時に出来て行くと云う事を楽しみに信心する。巡りが無くなって行く、それはそう云う手篤い信心から。此方は無学でも皆おかげを受けておる。此方金光大神のところには、もう自分自身巡りの影りが無い。其処で自分自身いつも助かっておられる。そこに人も助かって行くと云う事になって来た。
だから此処ではなら無学でも人が助かっておると云う事は、学問があっても人は助けられる。真さえあれば、巡りのお取り払いさえ頂いて行けば。只今申しますような信心姿勢さえ取らして頂けば、自ずと、段々段々、これはもう理屈じゃない。巡りのお取り払いを頂いて、私は今日は、特に其処ん所を重点を置いてお話ししとります。巡りのお取り払いを頂くに従って、自分が楽になると云う事なんです。
ですからどうでも巡りのお取り払いとして頂ける信心姿勢を造らなければいけませんことを、皆さんよく今日承知しておいて頂きたいと思う。此方は無学でも皆おかげを受けておる。これは学問があっても無学であっても、言わば巡りのお取り払いを頂いて、自分自身が助かって楽になって行くと言う所に、人の難儀もまた持ってあげれるというか、人が助かって行かれる程しの道は其処から自ずと開けて来るわけであります。
私はそう云う様な物をですね、昨日佐田さんところの御宅祭に於いて感じが致しました。成程巡りのお取り払いを頂いて行くことは、ああいう受け方こそが巡りのお取り払いを頂いて行くんだなということ。例えばちょっとした難儀な問題でも皆さんの場合は、そこんにきはぐずぐずしとるでしょうが、困っとるでしょうが難儀を感じておるでしょうが。だからすっきりとしたお取り払いになって行かん。其処ん所が嬉しゅうて、嬉しゅうてと言うごとならにゃいかん。「やれ痛や、今みかげを」と思う。
そういう頂き方にならねば、そこからです、私はいよいよ本当の意味に於いてのおかげが、いよいよ育って行くことになります。今日は九十九節から申しましたけれども、九十九節のとりわけ、「此方は無学でも皆おかげを受けておる」と云う所に焦点を置いたものですね。そして九十四節の最後のところであります、「信心の篤いのが真の信者じゃ」と仰る。信心が篤いというのは、只熱心に拝みよる参りよるというのじゃなくて、今日申しましたようのところをです。
信心が篤いとは、そういう信心、そういう姿勢がとられての信心を、信心が篤いのであり、それが真の信者じゃと、真の信者にならして貰う、真の道を歩かして貰う。そこから、真のおかげが限りなく開けてくるという。おかげを頂くために、どうぞ日常生活の上にも、望遠鏡と顕微鏡の話を致しましたようなですね、そういう生き方で、目細うおかげ頂かして頂く同時に、いよいよ大腹と申しますね。大きな腹を作って行く修行を、本気でさして頂かねばならんと思いますね。
どうぞ。